ツムラの漢方薬の94番は欠番です。

今回は、久しぶりに日本の戦国時代に活躍した漢方医である曲直瀬道三の著書の「切紙」の一節を取り上げます。

冒頭の五十七ヶ条の6番目の「不可拘古方而通旧法則佳也」になります。

「古方にこだわるべからず。とはいえ、古い方法に精通することは良いことだ」と解釈しました。

古方というのは、中国の後漢の時代(西暦200年頃)に書かれた傷寒論(しょうかんろん)や金匱要略(きんきようやく)などの古典を指します。

どちらも張仲景(ちょうちゅうけい)という医師がまとめた医学書とされています。

後漢末期は政治が乱れ、戦争や疫病の流行によって多くの人々の命が犠牲になっていました。

三国志の劉備玄徳や諸葛孔明が何とか国を変えたいと帆走していた頃です。

ちょうど今読み直している吉川英治の「三国志」には、華佗(かだ)という、凄腕の外科医が登場します。

三国志の英雄である関羽や曹操も治療した医師で、医聖と呼ばれて尊敬されていた人物です。

戦いで腕に重症を負い、敗血症になりかけた関羽を手術して見事に助けました。

華佗は、麻酔もなしに皮膚を切開し、膿を取り除きますが、関羽は声も出さずに平然としていた描写があります。

彼は、曹操にも持病の頭痛の主治医とて呼び出されますが、確執が生じて命を落としてしまいます。

張仲景は三国志には登場しませんが、同じ時代に活躍した医師です。

一族の多くが伝染病で亡くなってしまったことをきっかけに、急性期の治療をまとめて傷寒論を執筆しました。

傷寒論には、すでに葛根湯桂枝湯麻黄湯などの記載があります。

金匱要約は、慢性期の治療をまとめたもので、八味地黄丸桂枝茯苓丸などのの記載があります。

中国では、その後に、唐、宋、金、元と時代が進むにつれて医学も様々な宗派に分かれていきました。

特に、金元時代に活躍した劉完素(りゅうかんそ)、張子和(ちょうしか)、李東垣(りとうえん)、朱丹渓(しゅたんけい)は、金元四大家と呼ばれ、中国医学の発展に大きな役割を果たしました。

李東垣の著書には、補中益気湯半夏白朮天麻湯のなどの記載があります。

彼は、病気の侵入を防ぐには、からだの内部の環境を整える事が必要であるとの考えて、身体を補強する方剤を重要視しました。

さらに次の明の時代には、日本と中国の交流も盛んになり、中国医学が日本に少しずつ浸透しました。

この頃の中国に留学した田代三喜(たしろさんき)の弟子であった曲直瀬道三は、金言医学を中心に学んで日本独自の医学の発展に貢献しました。

江戸時代になると傷寒論などの古典に立ち返ろうという動きが盛んになり、その代表的存在が、吉益東洞(よしますとうどう)という漢方医です。

梅毒や天然痘などの疫病の猛威に対抗するためには、曲直瀬道三らの医学では生ぬるいと考え、副作用はあっても強力な薬を積極的に使った医療を推し進めました。

吉益東洞などの江戸時代中期から活躍した流派は古方派、田代三喜や曲直瀬道三の流派は後世派と言われます。

今、使われているエキス剤の漢方薬は、傷寒論に基づくもの、金元医学に基づくもの、日本独自に作られたものなどが混在しています。

様々な時代背景の中で作り出されたお薬を自由に使える日本の漢方医療は素晴らしいと思います。

真剣に医療に向き合ってきた先人たちに恥じぬように、しっかり学んで適切に漢方薬を使いたいと思います。

 

参考

絵でわかる漢方医学 入江祥史著

基本がわかる漢方医学講義 日本漢方医学教育協議会

三国志(一)~(八) 吉川英治歴史時代文庫